供養塚

伊達藩の「安永風土記」には、宝永年間(1704〜1711)、肝入りの三郎兵衛が大飢饉のために餓死した人々を供養するために、一字一石の供養法華経を埋めたことからこの名が起こったとあります。その塚は、供養塚のシンボルである柳の木から東に20mの住宅敷地内にあります。

この柳の大木は三十三回忌の柳の塔姿が大きくなって現在の柳になったという不思議な言い伝えもあります。